
【SET LIST】
1,虹
2,友だち
3,in a little darkness
4,さかみち
5,楽しいってこと
久々のblog UP。
ご心配?おかけしておりましたが、元気にやっております。
この日のLiveを終え、新曲が欲しいと痛感。
作りたいよね、サクッとね。
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しかしあれやね、blogっちゅうのは、
サラサラと雑記のように書けるくせに、
世界中の誰でもが見られるっちゅうのは、
なんだか微妙っちゅうか、難しいっちゅうか。
ゴニョゴニョとそんなこと考えるのだけど、
こういう雑記にまで、強烈な「責任編集オレ!!」っていう意識、
必要なんだろうか。
「オレは文筆家ではないし」とか、そーゆー考えは置いておいて。
まぁやっぱり必要なんだろうな。
自分から発せられたものは、
声も、文も、言葉も、態度も、
汗とか体臭とか、そういうのも、
全部「メイド・イン・オレ」なわけで。
だがしかし、そんな責任にいちいちビクビクしていたら、
息することさえ他人を気にしなくちゃいけなくなっちゃう。
それは違うよね。
心臓が不随筋で動いてるってことは、
そんなに自分の全てにいちいち責任を持つことと矛盾が生じるから。
つまり何が言いたいかって、
他人のことを気にしながら、でも気にせずに、
生活すべきっていうか、行動すべきっていうか、生きて行くべきっていうか、
そんなことを思うわけです。
「気にしながら、気にせずに」っていう、その矛盾こそが大事というか、
矛盾それ自体じゃなくて、その矛盾を誰しもが抱えていること、
それを認めることが大事なんだと思う。
例えば、
「復習や反省は大事」と言う人もいれば、
「復習は後向きな行動」と言う人もいる。
自分一人の中でも、そのどちらもが場面によって去来することが多々ある。
それならば、「どちらが正しい」と決めつけずに、
「どっちもあるよね」と認めることが賢明だと思う。
じゃ例えば、
オレが今、この久々なのにまた不毛なことを一人議論しているこのblogを、
頭から見返してリライトすることが正しいのか、
この徒然なるままの文章を、万年筆で書いた清書としてUPするのが正しいのか、
どちらが正しいということは、ない。
そこには「メイド・イン・オレ」の論議が加わってくる訳だが、
責任を求めるのも自分、責任を取るのも自分なのであれば、
結論は、「自分との一瞬の相談」で決めるのが正しい、
ということになるであろう。
その「相談」において、大事な決定要因となるのが、
他人と自分との関わりで、
「人がこれを見て、感じて、どう思うか」、
「人がこれを見て、感じて、自分はどう思われるのか」、
それを常に頭に、ではなく心や感情の真ん中辺りに置いておく必要がある。
ただ、ここにも矛盾は潜んでいて、
それは、
「他人て誰?」
ってこと。
全ての人に納得のいくものなんて、ありえないと考えた方がいい。
大衆と、全ての人とはまた違うしね。
例えば
「日本人にとって、例えばインド人の体臭は心地よいものではないだろう。」
これはありえない。
日本人でも、インド人の体臭がクセになっちゃうくらい好きな人が、
一人以上は確実にいる。
インド人は、インド人の体臭は気にならないだろう。
↑いや、本当にそうか。インド人でも、インド人の体臭がニガテな人が一人以上は必ずいる。
--そろそろこの話終わりますからね...--
つまり、
自分のことにも、他人がどう思うであろうことにも、
責任は必要であって、必要じゃなくて、そのどちらもであって、どちらもでない、
ってこと。
『賛成の反対なのだ』
っていうパラドックスと同じ。
こんなグタグタとわけの分からぬモラトリアムな一人対話を、
ちっちゃいおっさんになりかけ、坊主伸びかけヘアーの日本人がしていても、
いーのだ、いーのだ。
「馬鹿なこと言ってんなー」とか、
「わけ分からんよ、いーから飲もうぜ」とか、
「大丈夫かな?」とか、
「好きだねぇ〜」とか、
そうやって、心の中にオレの侵入を許してくれる人がいれば、
いーのだ、いーのだ。
オレも、誰かにとってそのような存在でいたいのだ。
行き着く所は、そこなのだ。
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★写真はLiveとも雑記とも関係ない、
こないだ行った山梨は明野村のひまわり畑。
真ん中の雲が存在感有り気に浮かんでいた。